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このページは、石油便覧トップの中の第3編の中の第2章の中の第4節 戦後復興と外資提携のページです。




  1. 第二次大戦後の石油産業の復興
  2. 外資との提携と戦後の復興
  3. エネルギー革命と後発企業の参入

1. 第二次大戦後の石油産業の復興

太平洋岸製油所の再開

 1945年8月に第二次世界大戦は終結した。この戦争により日本経済の被った打撃は大きかったが、とりわけ石油精製業の被害は大きく、その生産設備の被害率は58%で、製造業の中で最も高かった。

 そのうえ戦後の連合国の日本占領政策は、すべての産業の非軍事化を目指しており、石油産業についても、太平洋岸の製油所は一切その復旧が認められず、わずかに日本海側における原油採掘と、その精製のみが許されたに過ぎなかった。

 1946年のポーレー賠償調査団の報告では、一切の石油精製ならびに貯油施設を撤去することが示され、1948年のストライク調査団の報告でも、日本の製油所は全部スクラップ化して、製品輸入に依存することが示されていた。

 しかし、こうした連合国の政策は、まもなく180度転換し、1949年に来日したノエル調査団の報告は「日本の既存の製油所を復旧させ、製品輸入を原油輸入に切り替えるのが最善の政策である」と勧告するに至った。

 このノエル報告に基づき、1949年7月に太平洋岸の製油所操業再開と原油の輸入が許可され、翌1950年に戦後最初の輸入原油として米国からサン・ノーキン(San Joaquin)原油が到着した。こうした原油の輸入は、1950年10月から製油所ごとにその精製能力に応じた数量を割り当てられ、民間貿易の形で輸入されることとなった。

石油製品販売の自由化

 一方、国内市場については、前に述べた石油業法や石油専売法のような戦時統制立法は、戦後いち早く撤廃されたが、原油の輸入と太平洋岸の製油所が再開されるまでの石油供給は、米国のガリオア資金(占領地救済援助資金)やエロア資金(占領地経済復興資金)による製品輸入と、在日米軍の放出品によるほかはなかった。

 国内の石油製品の配給は、1947年に設立された石油配給公団によって実施されてきたが、1949年にこの公団は解散し、これに代わって登録元売業者が配給統制の実務を担当することとなった。

 その後、1952年に石油製品の価格及び配給の両統制は撤廃され、石油は為替管理を除いては自由販売となった。

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2. 外資との提携と戦後の復興

 日本の石油産業は、1950年の太平洋岸製油所の再開を契機として、戦災による荒廃から再び立ち上がることとなったが、精製技術の近代化と精製施設の復旧のために、巨額の資金が必要であり、同時に海外からの原油の長期安定輸入も不可欠であった。

 こうしたいくつかの条件を満たし、石油産業を早く復興させるためには、海外で広く活動し、世界的な原油資源の所有者である外国石油会社との提携が唯一の選択肢であった。

 1949年、外国人の財産取得に関する政令が出され、独占禁止法が改正され、その翌年には、外資法が制定される等、外国石油会社が、日本の石油会社と事業提携できる素地が作られた。そして日本の石油会社は相次いで外国石油会社と技術提携、委託精製、委託販売等の提携契約を結び、さらに精製部門を中心とした資本提携へと発展していった。

 1949年には、米国のスタンダード・バキューム石油が東亜燃料工業(株)と資本提携契約を結び、翌年、カルテックスは興亜石油(株)と資本提携した。

 さらに1951年に、日本石油は太平洋岸製油所部門を分離し、カルテックスと折半出資による日本石油精製(株)を設立した。

 また、タイドウォーター(のちのゲッティ・オイル)と三菱石油(株)は、戦前の資本提携関係を復活させ、ロイヤル・ダッチ/シェルも昭和石油(株)と資本提携契約を結んだ。このほか、資本提携でない種々の提携関係が生まれた。

 このようにして、戦前は製品市場中心であった米国系や英国系の国際石油会社は、日本の精製業と事業的に結びつくことにより、日本に原油市場を確立した。ここに、日本の消費地精製体制が整ったのである。

 このころ中東の大油田のほとんどは、国際石油会社の開発によるものであり、世界の石油貿易が原油中心になるにつれて、中東アラビア湾の石油積出港を基準地点とする原油公示価格が建てられるようになり、中東原油を輸入する国にとって、原油の輸入が製品の輸入より経済的に有利になった。

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3. エネルギー革命と後発企業の参入

 太平洋岸製油所の再開後、朝鮮動乱による軍需ブームが起き、次いで1951年には、サンフランシスコで対日講和条約が調印されて、日本は名実ともに自立化へと歩み出すこととになった。このような経済の自立化に必要な産業の振興には、安価なエネルギー源の供給が必要であった。

 ところが、国産エネルギー源の中心であった石炭は、1955年ころから不況に落ち込んでいった。政府は原油や重油に輸入関税をかけて、石油へのエネルギー転換を抑えようとしたが、世界的な石油供給過剰傾向と、それに伴う値下がり、およびタンカーの大型化による輸送コストの低下により、石油の石炭に対する経済的有利性を覆すことはできなかった。

 このころ、産業界の技術革新は、エネルギーの流体化とその消費原単位の減少の傾向を生み出し、流体エネルギーの固体エネルギーに対する優位性は明らかとなっていった。こうして、1950年代半ばころから始まる石炭から石油へのエネルギー革命は、諸外国にもまして日本で著しく進展し、日本は、石油時代へ急速に進んでいった。

 日本の石油精製能力は、講和条約発効の年である1952年には、1日当たり14万750バレルであったが、1960年には78万9,280バレルへと急速に増加した。

 このように石油需要が拡大していくうちに、重油価格が低下していき、重油の競合商品である石炭は、ますます苦境に追い込まれていった。同時に石油産業自体の収益性も低くなっていった。

 これに伴い1960年代の高度成長期を迎える日本経済に必要な石油エネルギーを供給するために、精製設備を拡大する資金の確保が困難な状況も生まれてきた。

 このため、国内の精製会社のうちで、とりわけ、外国石油会社と資本提携していなかった後発の会社も、外国石油会社を通じて長期の外貨資金の借入れをするようになった。1960年以降、こうした長期の資金借入れと、借入先の外国石油会社から原油供給を受ける契約とによって、資本関係を伴わない、新たな外資と日本の精製業との提携関係が形成されていったのである。

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