【前編】
塩崎 貴史 31歳。 1991年、広陵高校(広島県)2年のとき、春の甲子園で5番打者として出場し、大正15年以来となる65年ぶりとなる優勝に貢献した男である。 当時、彼は持ち前のガッツと非凡な野球センスにより、高校2年からクリーンナップを任され、甲子園通算7試合のうち6試合でヒットを打った。また、打力だけではなく、守っては広陵の2枚看板投手の一人として得意のスライダーを武器に攻守の要として活躍した。 しかし、当時の広陵は決して前評判の高いチームではなかった。
「僕らは優勝できるチームじゃなかったんです。だいたいどんな新聞の評価を見ても“広陵・機動力あり・C評価”でした。決勝戦まで行けただけでもすごいことなのに、A評価の松商に勝っちゃうなんて誰も予想してなかったでしょうね。」
確かに当時の優勝候補は、後に日本ハムファイターズに入団した上田のいた“松商学園”、この年の夏の甲子園で優勝することになる強力打線の“大阪桐蔭”であり、広陵が優勝するなどとは誰も予想していなかった。
「本来なら初戦敗退だったんですが、大雨による再試合で勝ちが転がってきたんです。」
広陵は初戦で三田学園(兵庫県)と対戦し、豪雨の中、9回まで負けていた。 しかし、9回裏に奇跡の同点2ランが飛び出し、試合はドローとなり、再試合となった。
「その同点2ランはうちの9番バッターが打ったんですが、彼にとってそのホームランは生まれて初めてのホームランだったんです。甲子園で打ったホームランが生涯初のホームラン。世の中ラッキーな人もいるもんです。」
その後、再試合で三田学園に8−2で勝利すると、2回戦で春日部共栄(埼玉県)に4―2、3回戦では鹿児島実業(鹿児島県)に5−2、続く準決勝では当時、“ミラクル市川”と言われた市川高校(山梨県)に4−1と勝ち進み、気が付くと塩崎は決勝の舞台に立っていた。
「僕ら、もう決勝に来ただけで満足していたんです。だって、C評価だったんですから。選手同士では負けても準優勝、銀メダルだぞ!なんてはしゃいでいました。そんな状況の中、今でもよく覚えているのが、決勝の直前のミーティングで監督が言った言葉です。“おまえら、こういうチャンスは一生に一回あるかないかだぞ。格好つけなくていいから、どんなことをしてでも勝て。優勝と準優勝の差は大きいぞ”と話されていたことです。ただ、そんなこと言われても、17、8の高校生には全く響きませんでした(笑)。しかし、今ではその差は大きいと感じます。正確には僕ら自身ではなく、周囲の見方が優勝と準優勝では全然違うなと思います。」
決勝のマウンドに立つ塩崎貴史。 数分前に聞いた監督のありがたい言葉は17歳の少年には届かず、ここまで勝ち進んだ満足感が闘争心を失わせ、塩崎の体はついに最後までいつものようなキレを取り戻すことはなかった。 試合開始のサイレンが春の甲子園にこだまする。 ウ〜〜〜、「カキーン!」〜〜〜ン。 初球を打たれ、2ベースヒット。ランナーが2塁でガッツポーズをする中、サイレンの音は虚しく鳴り止んだ。
塩崎はいきなりピンチをむかえた。 その回は1失点に抑えたが、その後、何度となく松商学園の強力打線につかまり、結果的に5失点を喫し、6回降板となった。
「勝利の女神には17歳の少年の心など、簡単にお見通しでしたね。」
塩崎は降板したが、広陵は初戦でドローに持ち込んだあの9番バッターがまたもやサヨナラ打を放ち、65年ぶりの甲子園優勝を勝ち取った。
【後編】
優勝旗を広島に持ち帰った広陵高校の選手たちは地元での大歓迎を受けた。
「広陵高校は山の上にあり、全寮制なので、高校3年間で女性と話す機会がないんです。いや、正確にはあります。食堂のおばちゃんと先生(笑)。そんな環境だったのですが、優勝した後は近隣の女子生徒が練習を見に来るようになったんですよ。・・・でも、それが良くなかったです。いいとこ見せようとして大振りになりました。特に私(笑)。」
<C評価がA評価に!?>
優勝時のメンバーの半数が2年生、そしてクリーンナップに関していえば3人とも2年生だったため、優勝翌年の広陵高校はメディアから常に優勝候補と評された。
「どの雑誌を見てもA評価。東の帝京、西の広陵と言われていました。C評価がいきなりA評価です。」
しかし、甲子園での結果は2回戦敗退。
「有頂天になっていました。周囲はA評価。それに輪をかけるように、1回戦で当時九州ナンバーワンの福岡大付属大濠に14対0で快勝。僕らは勝手に準決勝までのシナリオを考えてました。それが、2回戦で兵庫育英にあっさり0−4で完封負け。兵庫育英は2年生主体の若いチームでした。つまり、1年前の自分たちのようなチームに負けたわけです。そのとき思いました。A評価とかC評価って言うけれど、それって一体なんだ? そんなの関係ないぞ。甲子園に来るチームは戦ってみなければわからない。野球という競技の難しさ、怖さを感じました。しかし、この経験は今、私がコーチをやっていく上でとても貴重な経験になっています。」
<俺のために畑を練習場にしてくれた親父へ、ありがとう。>
私の野球の基本技術は広陵高校で培われましたが、原点は小学生時代に培ったものが大きいと思います。父は野球をやっていた人ではないのですが、私が野球をやりたいと言うと、熱心によくつきあってくれました。 ある日、畑をつぶして練習場にしてくれたときは私の方がびっくりしました。今思えば、日本版のフィールドオブドリームスですかね(笑)。 さらには、夜暗くなるとボールが良く見えないからとナイター設備まで付けてくれました。父はあまり細かいことは言わず、“今の良かったね“とか”いいぞ“と言葉をかけてくれました。そんな熱心な父に支えられ、私は学校から帰ってきて、まず5キロ走り、それから自宅練習場でバッティング練習という日課を中学卒業まで毎日欠かさずやりました。 このときの土台があったからこそ、広陵高校の厳しい練習にもついていけたのだと思いますし、甲子園で優勝まですることができたのだと思います。
<コーチとしての自分>
僕は若い頃、あまり「考える」ということをしなかったので、今となっては後悔しています。投手コーチとして選手の投球技術をアップさせることは確かに大切ですが、選手たちに考えることの大切さに早く気づいてもらいたいと思っています。 例えばトレーニングですが、与えられたメニューをこなすだけでは成長しないよと常々言っています。自分に必要なものは何なのか考えること、後になってから、もっと練習しておけば良かったと後悔しないようにするにはどういう日々の過ごし方をすべきなのかなど、考えることの大切さに気付かないと、昔の私がした失敗を選手たちもすることになります。そのことを1日でも早く選手たちに気付いてもらえるように指導するのが今一番大切だと思っています。自分で考える力がつけば、後は自然といろいろなことがいい方向に進んでいくんですから。
貫禄ある投球フォーム(271KB)
あの頃の親父とキャッチボール(308KB)
☆第3回はこの人です。
ヒント:
第82回(2000年)の夏の甲子園で優勝。 PL学園の好投手・朝井(現:楽天イーグルス)から放ったバックスクリーンへの豪快なホームランは人々の記憶に新しい。
掲載日は3/27(月)予定。乞うご期待。
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