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このページは、目次の中の資料編の中の石油産業の歴史:第2章 国内石油産業の中の第2節 外国原油精製の発展のページです。

  1. 第一次世界大戦と石油産業
  2. 国産原油の開発競争と輸入増大
  3. 日・宝両社の合併
  4. 外国原油の輸入精製

1. 第一次世界大戦と石油産業

1910年ごろから、電灯の普及により、石油ランプ用の灯油需要が漸減傾向をたどったのに対し、発動機付き漁船の急増を主因として軽油の需要が増大し、1921年には、明治以来の主要商品である灯油の需要量を超えた(表 2-2-1)。

一方、自動車の保有台数増によりガソリンの需要も増大し、1919年2月には日本石油により、東京・鎌倉河岸に最初のガソリンスタンド(ビジブル式)が建設され、同年9月にはライジングサン石油のガソリンスタンドも開業した。

表 2-2-1 国内石油製品需要の推移
(単位:千kL)
ガソリン 灯油 軽油 重油 機械油 合計
1914 14 247 76 83 55 475
1916 17 189 63 157 56 482
1918 38 143 133 67 84 465
1920 53 167 123 41 89 473
1922 70 156 170 37 87 520

第一次世界大戦中から戦後にかけて日本の諸産業は発展し、重工業化が進むとともに、機械の動力化により石油の需要構造が変化した。

こうして、石油は「灯火用エネルギー」から「動力エネルギー」へと転換していった。

また、第一次世界大戦中に、日本海軍の軍艦の燃料が石炭から重油に切り換えられたことにより、重油は海軍にとってますます重要になった。そこで海軍は、1918年に「軍事上の必要に基づく石油政策」を起案した。これは、a.石油事業の国営化、b.国内石油会社の合同一体化、の二案から成る日本における初の具体的な石油政策の提言であった。

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2. 国産原油の開発競争と輸入増大

第一次世界大戦を契機に石油需要は増大し、国産原油の開発競争が高まった。

大日本鉱業(株)ほか多数の新会社が参入し、鉱区面積は1912年の3億坪弱(約10万ヘクタール)から、1921年には17億坪(約56万ヘクタール)近くに増えたが、国内原油生産量は1915年の48万kLをピークに減る一方であった(表 2-2-2)。

表 2-2-2 原油・製品の国内生産と輸入の推移
(単位:千kL)
国内生産 輸入
原油 製品 原油 製品
1914 434 313 9 155
1915 477 402 18 149
1916 470 395 10 105
1917 454 400 12 91
1918 387 352 5 123
1919 355 294 10 171
1920 352 282 16 184
1921 354 288 43 145
1922 326 228 90 213

国産原油の減少に伴い、海外油田にも目が向けられ、1915年から1925年にかけて、日本石油をはじめ、久原産業、政府(海軍)、三井、三菱、鈴木商店等による石油利権獲得を目指す動きがあったが、ほとんどは不成立に終わった。そのため、国産原油だけでは供給不足が生じ、原油輸入も必要となってきた。

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3. 日・宝両社の合併

一方、第一次世界大戦による傷が癒えた外国石油2社は、その後著しい発展をとげ、再び日本市場を影響下におく勢いを示し始めた。

これに対抗するため、日・宝両社は1921年に合併し、新しい日本石油(株)が生まれた。この合併後の日本石油は、国内石油開発に独占的地位を占めることとなった。

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4. 外国原油の輸入精製

1907年10月に南北石油(株)程ヶ谷(ほどがや)製油所(神奈川県・保土ヶ谷、原油処理能力3,000バレル/日)がカリフォルニア原油を初輸入し、原油処理を開始した。これが、我が国における外国原油の輸入精製の先駆けであったが、その後、原油供給者側の事情で原油輸入が困難となり、翌1908年にこの事業は挫折した。

また、ライジングサン石油の西戸崎製油所における外国原油の輸入精製事業も、原油の輸入難等により、1917年に中止に追い込まれた。

1920年代に入り、第一次世界大戦後の世界的な油田開発ブームの結果、原油供給過剰が現れてきたことと、国内の油田が衰退期を迎えていたこととが相まって、関税障壁を越えて原油輸入が行われる条件が整えられた。これを受けて、1921年に旭石油(株)が上記の西戸崎製油所を賃借して輸入原油の精製事業を開始した。

これに続いて、それまで国産原油の採掘と石油精製を主として行っていた日本石油も、輸入原油精製に乗り出すこととなり、1924年、原油輸入に便利であり、消費地に近い太平洋岸の神奈川県鶴見に鶴見製油所を建設した。これは、日本の石油産業を本格的に輸入原油精製に転換させる契機となった。日本石油に続いて、小倉石油(株)と三菱石油(株)が、それぞれ横浜(1929年に潤滑油装置、1931年に燃料油装置完成)と川崎(1931年に完成)に製油所を建設した。

こうして内外原油競争は完全に輸入原油の優位となり、この時期を境として、日本の石油産業の中心は日本海側から太平洋側へ移動し、すなわち国内採掘から輸入原油精製、販売へ転換することとなった。



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