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石油産業の歴史 第1章 第4節 原油供給過剰とOPECの設立

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このページは、目次の中の資料編の中の石油産業の歴史:第1章 国際石油産業の中の第4節 原油供給過剰とOPECの設立のページです。

  1. OPECの設立
  2. 1960年代における原油価格の下落
  3. リビアの価格攻勢とテヘラン協定
  4. 事業参加と国有化の進展

1. OPECの設立

国際石油会社は、原油実勢価格の一般的低下傾向を反映させて、1959、1960年の両年、相次いで産油国に支払う所得税の算定基準となる公示価格を引き下げた。このことによって国際石油会社は、産油国への所得税支払いを削減することができたが、逆に産油国は、石油収入の減少に対する危機感を抱き、これに対する防衛的手段の必要性を強く認識するようになった。

1960年9月、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビアおよびベネズエラの5ヵ国は、イラクの首都バグダッドで石油輸出国会議を開催し、参加国の定期的協議を目的とした恒久的機関、石油輸出国機構(Organization of Petroleum Exporting Countries:OPEC)の設立を決議した。

設立時における具体的な目的は、「石油各社が石油価格を安定させ、不必要ないかなる変動もないように維持すること」を加盟国が要求し、「自らの判断によるあらゆる方法により、現行価格を値下げ以前に一般的であった水準に回復し、確定すること」であった。

OPECに加盟する産油国は次第に増加し、1960年代末には10ヵ国に、さらに、1975年にはアフリカのガボンの加盟によりピークの13ヵ国に達した。

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2. 1960年代における原油価格の下落

1960年代は世界的に高度成長が続き、これにつれてエネルギー需要は増大を続けた。一次エネルギー供給量中に占める石油の比率は、1960年の37.8%から1970年には48.7%まで上昇し、第一次石油危機直前の1972年には49.9%とほぼ半分に達した。

これに対し、原油の供給面では生産の中心が西半球から東半球へ移行し、特に中東とアフリカへの集中が著しかった。また、OPEC諸国の生産比率が高まって、1970年には自由世界の55%(米国を除く自由世界の81%)を占めるに至るという大きな変化が生じ、OPEC諸国の重要性を著しく高めた。

しかしながら、1950年代半ば以降新たに大油田開発が急速に進展し、全般的に供給は豊富であって、需要の増加を上回り、かえって余剰生産能力が増大した。この供給圧力のもとに、原油価格は低落を続けた。

また、1950年代に、いわゆる独立系石油会社(インディペンデンツ)が世界の産油業に新規参入したことも、原油価格に下降圧力を加えた。

このような原油実勢価格の低落にもかかわらず、主としてOPECの抵抗によって、中東原油公示価格は1960年の水準に据え置かれた。また、産油国の要求により1964年から1965年にかけて利益折半方式が改定されて「利権料の経費化」が実現し、産油国政府取り分は、それまでの公示価格で計算された利益(公示価格-生産コストその他)の約50%から、同じく約55%に増加した。したがって実勢価格は低下したが、産油国の原油生産のバレル当たり収入は、名目的にはかえって増大した。

しかし、OPEC諸国には不満が高まった。名目的には産油国の原油生産の単位当たり収入が増加しても、インフレの結果、実質収入は1960年代を通じて逆に20%減少したといわれる。さらに根本的には、公示価格の決定をはじめとして、石油資源の処分に関する諸権利が外国の石油会社に掌握されていたことが、資源ナショナリズムの観点から議論の的となり、OPECは、石油資源に関する主権回復の戦略を次第に固めつつあった。

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3. リビアの価格攻勢とテヘラン協定

後にいわゆる「OPEC価格攻勢」と呼ばれるものの先陣を務めたのは、1969年9月にカダフィ陸軍大尉を中心とする軍事クーデターにより、王制を廃止した新興産油国リビアであった。

1970年9月、スエズ運河の閉鎖、アラビア湾と地中海を結ぶTAP(Trans-Arabian Pipeline)の閉鎖、それによるタンカー運賃の高騰等を背景に、公示価格の30~40セント/バレルの引上げ、所得税率の5%引上げを実現し、OPEC価格攻勢の発端をつくった。

このリビアの値上げは、直ちに東地中海積みの中東原油に波及、さらには、アラビア湾積みの重質原油の値上げとなった。

このいわゆる「一次値上げ」が終了すると、OPEC諸国は1970年12月にカラカスで第21回OPEC総会を開催し、石油会社側と値上げ交渉を開始することを決議した。

それに基づき1971年1月に交渉が開始され、交渉中にOPEC側は全面禁輸等の措置をとる可能性を匂わし、結局、同年2月に石油会社側と「テヘラン協定」が締結された。テヘラン協定にはアラビア湾岸6ヵ国と石油会社13社が調印し、これによって1975年までの公示価格の引上げスケジュールが決定された。

翌1972年には、多国間通貨調整によるドル減価分を産油国に補償する「ジュネーブ協定」が結ばれた。

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4. 事業参加と国有化の進展

以上のように産油国による政府収入増大の要求は、段階的に達成されたが、これと並行して、産油国による自国の石油資源および石油産業に対する主権確立の試みも実行されていった。

これには、産油国政府みずからが利権保有者の一部となって共同事業を行いつつ、徐々に支配権を拡大していこうとする穏健的な事業参加と、より直接的かつ短期的に、資源および操業権益を利権保有会社から奪回しようとする急進的な国有化の二つの方式があった。

事業参加については、サウジアラビアとアブダビが事業参加に関する「リヤド協定」を石油会社と1972年12月締結した。同協定では、1973年から1977年まで事業参加比率を25%に固定し、その後1978~1981年に毎年5%ずつ上乗せしたのち、1982年には、さらに6%を加えて事業参加比率を51%とする計画であった。その後、1973年にクウェートとカタールが同協定に参加したが、クウェートは、議会の承認が得られなかったため、1974年に別途協定した。

一方、国有化は、石油資源の支配構造変化のなかで、最も明確な転換を示す形態であり、アルジェリア、ベネズエラ、リビア、イラクで実現したが、国有化の経過や国有化後の石油産業の姿は、国により様々であった。



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