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石油産業の歴史 第1章 第5節 石油危機と石油需要の停滞

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このページは、目次の中の資料編の中の石油産業の歴史:第1章 国際石油産業の中の第5節 石油危機と石油需要の停滞のページです。

  1. 第一次石油危機
  2. 第二次石油危機
  3. 原油需給の緩和
  4. 原油価格の低下

1. 第一次石油危機

1973年10月6日、イスラエル軍とエジプト、シリア軍がスエズ運河東岸とゴラン高原で武力衝突し、これにより第四次中東戦争が勃発した。この戦争が開始されるや、中東地域の産油国は原油価格の引き上げや供給削減など、石油戦略を開始した。石油が「一般市況製品」としてではなく、いわゆる「政治的戦略商品」として扱われた典型的な例となった。

その戦略の最たるものが、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)に代表されるアラブ産油国が、イスラエル寄りの国々に対し、原油の輸出を禁止したことである。第四次中東戦争自体は、翌月11日にエジプト・イスラエル間で停戦合意書の調印をもって36日間という短期間で終結をみた。しかし、こうしたアラブ産油国の戦略は、原油価格の高騰から石油需要の低迷を生み出し、世界の政治、経済に大きな影響を与えた。同時に、一時的供給不足は、消費国ではほとんど例外なく消費者によるパニック買いを誘い、社会的な混乱を引き起こした。これが第一次石油危機(第一次オイルショック)であり、第四次中東戦争がその引き金になったと言われる所以である。

これより先1973年9月のOPEC総会後、アラビア湾岸産油国は10月8日から石油会社との間で交渉を開始し、原油公示価格の大幅引上げを要求した。その根拠は、第一に先進工業国のインフレーションが年率8%から9%で高進する中、テヘラン協定で定めた年次引上げ率では、石油収入の購買力低下を補償できないこと、第二に石油会社の原油販売利益が増大しすぎていることであった。

バレル当たり2ドルを超すといわれた産油国の要求に対し、石油会社側は交渉の引き延ばしを図った。しかし10月6日に発生した第四次中東戦争を背景に行われたこの交渉では、アラブ産油国による公示価格の大幅引上げ要求が強硬で、ついに10月16日の産油国側の一方的な公示価格の大幅引上げ宣言を生む結果となった。

ここに、産油国は公示価格の決定権を完全に獲得し、これ以降、公示価格を「公示」する主体が石油会社(メジャー)から産油国へ移行することになった。またこれに伴い、1975年まで有効であった既存のテヘラン、ジュネーブ等の価格協定は、事実上失効することになった。なお、公示価格は1974年11月以降、公式販売価格(Official Selling Price:OSP)に改められた。

この公示価格決定権の奪回を足場に、同年12月末に、産油国は10月に引き上げた公示価格を翌年1月1日よりさらに2倍以上に引き上げる決定を行った。この決定は基準原油のアラビアンライト原油につき、その政府収入をバレル当たり7ドルとし、これをベースに、公示価格を1973年12月の5.036ドル/バレルから一挙に11.651ドル/バレルに引き上げるものであった。

1971年のテヘラン協定を境に、米国政府は、「メジャーズによる需給調整機能と価格形成機能は産油国により侵食され、メジャーズは米外交政策の道具としての有効性を失いつつある」と判断するに至った。このため米国政府は、消費国相互の結束を図り、産油国からこの機能を回復しようと新しい方向を模索した。

こうした動きを背景に、1974年2月、西側13ヶ国が参加して開催された「ワシントン・エネルギー会議」を経て、同年9月21日に「国際エネルギー計画(IEP)に関する協定」が承認された。同年11月18日に日本を含め16ヵ国(フランスは不参加)の署名を得て成立したこの協定は、緊急時に相互融通を行うための備蓄の整備、石油需要の抑制、代替エネルギーの開発などを骨子とし、その推進母体として国際エネルギー機関(IEA)を経済協力開発機構(OECD)内に設置することを取り決めた。このように、IEAは当初、産油国に対抗するための機関として設立されたが、その後、石油需要の減少、OPECの市場支配力低下、石油の値下がり等により、対決色は次第に薄れていった。

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2. 第二次石油危機

第一次石油危機後2年間にわたり低迷した自由世界の石油需要は、1976年から回復に向かった。しかし、こうした折、世界第3位の産油国であり、約450万バレル/日もの大量の原油を輸出していたイランで、1978年10月末に石油労働者のストライキが発生し、一時的に原油の輸出が停止した。このため、上昇を始めていたスポット価格に火が付き、OPECが意図していた原油価格値上げの条件が整った。

OPECは12月中旬にアブダビで第52回総会を開催し、翌年における原油価格の値上げ額を年間平均で10%増となるよう段階的に行うことを決定した。

この直後、イランからの原油輸出が全面的に停止し、1979年1月のパーレビ国王の国外退去、2月のホメイニ師の帰国、暫定政府の樹立(いわゆるイラン革命)をはさんで、3月上旬にようやく原油輸出が再開された。

この間、サウジアラビアの110万バレル/日の増産をはじめ、イラク、クウェート、さらに北海の原油増産により、イラン原油の肩代わりが行われ、第一次石油危機ほどの大混乱は回避された。

こうした中、1980年9月にイラン・イラク戦争が勃発した。この戦争は、1988年8月に国連安保理停戦決議に基づく停戦が成立するまで8年間も続くことになる。イラン・イラク戦争は、両国の国境シャトル・アラブ川河口付近の領有問題を直接的なきっかけとして始まったが、実態はイラクのサダム・フセイン大統領が、イラン革命後の粛清により弱体化したイラン軍に目をつけてイランに軍事侵攻したものだった。

このため、スポット価格は上昇を続け、アラビアンライト原油のスポット価格は78年9月の12.8ドル/バレルから80年11月には42.8ドル/バレルへ3.3倍にも再び急騰し、立ち直りをみせていた世界経済に大きな打撃を与えることとなった。上記の1979年のイラン革命に端を発したその後の原油価格の急激な上昇、およびそれによってもたらされた国際石油市場及びエネルギー需給における激変と、それによる甚大な経済的・社会的・政治的混乱を指して、第二次石油危機(第二次オイルショック)と呼ぶ。

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3. 原油需給の緩和

脱石油の動き

OPECが力による高価格政策を続ける裏側で、二つの大きな変化が生じていた。一つは石油需要の減少であり、もう一つは非OPEC産油国の原油生産量の急増である。

1979年6月、第二次石油危機のさなかに開催された東京サミット(主要先進国首脳会議)においては、石油消費の抑制、石油輸入目標量の設定、他のエネルギーの開発促進などが決議された。さらに、翌1980年6月のベネチアサミットにおいても、経済成長と石油消費のリンクを切断し、一次エネルギー全体に占める石油の比率を約40%に引き下げることなどが決議された。これに象徴されるように、第二次石油危機は、石油への過度依存に対するそれまで以上に強い反省をもたらした(表 1-5-1)。

表 1-5-1 自由世界の石油需要の推移(1973~1988年)
(単位:百万バレル/日)
1973 1975 1979 1980 1983 1984 1985 1986 1988
自由世界合計 47.3 44.6 51.3 48.6 45.0 45.8 45.8 47.1 49.8
米国 16.9 15.9 17.9 16.5 14.7 15.2 15.2 15.7 16.4
西欧 14.9 13.2 14.7 13.6 11.9 12.1 11.9 12.3 12.5
日本 5.5 5.0 5.5 4.9 4.4 4.6 4.4 4.4 4.8
10.0 10.5 13.2 13.6 14.0 13.9 14.3 14.7 16.1
出所:BP統計

第二次石油危機後の先進国を中心とする消費減退によって、石油の地位は大きく変化した。すなわち、自由世界の一次エネルギー消費量に占める石油の比率は、第一次石油危機の1973年には53.5%であり、第二次石油危機の1979年にもまだ51.9%に達していた。しかし、その後自由世界の一次エネルギー消費量が1979年の石油換算約48億トンから、1986年には同じく約49億トンへと微増したのに対し、石油がそのうちに占める比率は45.0%へと大きく低下した(図 1-5-1 )。

図 1-5-1 自由世界の一次エネルギー消費構成比の推移
出所:BP統計

非OPECの増産

石油需要の減少、低迷とともに供給面でも大きな変化が起きていた。非OPEC産油国の原油生産量の増加である。

OPECカルテルによる人為的な石油価格の高騰は、OPEC以外の地域の石油開発の経済性を高め、極地・深海といったフロンティアや、埋蔵量が小さいマージナルな高コスト油田でも、商業ベースの採算に乗る状況をつくり出した。また、石油会社によるOPEC離れも手伝って1970年代中ごろから、OECD諸国や非OPEC発展途上国の石油開発が進み、非OPEC産油国の原油生産量が着実に増加していった。

需要の減少と非OPEC産油国の原油生産量増加によって、OPECの世界における石油供給シェアは徐々に低下し、1978年にはついに50%を割り、1981年には40%を下回る状況となった。また原油生産量にしても、1983年には1,790万バレル/日となり、ピーク時の1977年に比較して約44%低下した(表 1-5-2)。

OPECが徐々にその市場シェアを減らしていくとともに、その市場支配力は弱まっていった。原油価格は弱含みに推移し、価格決定権はOPECの手から市場の「見えざる手」に移りつつあった。

表 1-5-2 主要産油国原油生産の推移(1973~1988年)
(単位:百万バレル/日)
1973 1978 1981 1983 1984 1988
サウジアラビア 7.7 8.6 10.3 5.0 4.5 5.7
イラン 5.9 5.3 1.3 2.5 2.0 2.3
イラク 2.0 2.6 0.9 1.1 1.2 2.8
クウェート 3.1 2.2 1.2 1.1 1.2 1.3
アラブ首長国連邦 1.5 1.8 1.5 1.3 1.3 1.6
インドネシア 1.3 1.6 1.6 1.4 1.5 1.4
その他 9.4 7.9 6.3 5.5 5.9 6.2
OPEC計 30.9 30.0 23.1 17.9 17.6 21.3
米国 10.9 10.3 10.2 10.2 10.5 9.8
メキシコ 0.5 1.3 2.6 2.9 2.9 2.9
ノルウェー 0.0 0.4 0.5 0.7 0.8 1.2
英国 0.0 1.1 1.9 2.4 2.6 2.4
旧ソ連 8.7 11.5 12.3 12.4 12.3 12.6
中国 1.1 2.1 2.0 2.2 2.3 2.7
その他 6.4 6.6 6.9 7.9 8.7 10.3
非OPEC計 27.6 33.3 36.4 38.7 40.1 41.9
全世界計 58.5 63.3 59.5 56.6 57.7 63.2
OPEC供給シェア 53% 47% 39% 32% 31% 34%
出所:BP統計

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4. 原油価格の低下

初の公示価格の引下げ(1980年代前半)

1980年中ごろから、すでに原油供給過剰は表面化しており、OPEC諸国の一部は自主減産を余儀なくされた。同年9月に勃発したイラン・イラク戦争も、供給過剰傾向を変えるほどの影響を及ぼすことはなかった。

それにもかかわらずOPECは原油価格の値上げを続行し、基準原油であるアラビアンライト原油の公式販売価格(OSP)は、1981年10月には34ドル/バレルまで上昇したが、供給過剰傾向のもとでの高値維持は困難であり、1983年2月に30ドル/バレル、同3月に29ドル/バレルに相次いで値下げされ、1985年2月には、さらに28ドル/バレルに値下げされた。

しかし、原油の価格競争は収まらなかった。OPEC最大の産油国として需給の鍵を握るサウジアラビアは、公式販売価格を固守し、市況維持に努めたが、その他のOPEC諸国や非OPEC諸国に市場を奪われた。1984年にすでにピーク時の約半分の470万バレル/日に落ちていたサウジアラビアの原油生産量は、1985年4~6月には260万バレル/日に激減した。この予想外の減産によって、サウジアラビアは石油収入の見通しが立たず、予算編成もできない状態に陥った。

原油価格の暴落(1980年代後半)

1985年7月、サウジアラビアは原油需給のバランスを調整する「スイングプロデューサー」としての役割をこれ以上続けない旨の宣言を行い、10月からは、「ネットバック価格」による原油販売を開始して増産に転じた。消費地における石油製品販売価格から逆算して原油価格を定めるネットバック方式の採用は、政治的に決定されていた原油価格に市場原理を導入するという画期的な意味をもっていた。また、原油供給過剰下において石油製品市況は低迷していたので、ネットバック価格は必然的にそれまでの公式販売価格を下回った。

サウジアラビアの政策転換は、1986年に入って大きな影響をみせ始め、競争力を回復した同国の原油が市場を拡大するとともに、歯止めを失った原油価格は全面安の状況となった。例えば、特に影響の大きかった北海原油(ブレント原油)のスポット価格は、1985年11月の30ドル/バレルから1986年1月末には20ドル/バレルを割り、7月には9.5ドル/バレルまで暴落した。

危機意識を強めたOPECは、1986年7月以降、減産体制を強化し、非OPEC諸国に対しても協調減産を呼びかけた。また、OPEC内外で固定価格制による原油価格の安定を望む声が次第に強まった。

同年12月、OPECは1ヵ月の経過期間をおいて、1987年1月1日からの固定価格制復帰を決定し、アラビアンライト原油など7原油の加重平均価格を18ドル/バレルとした。同時に、1987年1~6月の生産上限枠が1,580万バレル/日と設定され、7~12月についても暫定的な生産上限枠が定められた。これに伴い、サウジアラビアのネットバック価格による原油販売契約など、市況に関連させた価格設定方式は、1987年2月1日までに廃止されることとなり、OPEC諸国の大多数は、同日付で固定価格制に復帰した。アラビアンライト原油の公式販売価格は、ピーク時に比べれば半額に近い17.52ドル/バレルとされた。

この時期、ターム(期間)契約における原油価格決定方法に関して、現在に繋がる大きな変化が生じた。1986年に盛んに行われたネットバック方式は、原油価格低下を引き起こすとの判断から、前述のとおり、1987年には従来の公式販売価格を基礎とする方式にとって代わられた。しかし、1988年当初から、特定原油のスポット価格の動きに期間契約価格を連動させる、「スポット価格連動方式」が採用され始め、1988年秋には、期間契約量のほぼ8割がこの方式で決定されるに至った。



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